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Diane Arbus展 [photographs]

学校が始まり、さっそく課題が出ました。テーマは「Making and breaking the grid」。街で見かける景色、建物、雑誌のレイアウト、いろんなところで「格子」が使われています。その意味を考えて、作る、もしくは壊すという課題みたいです。えーっと、わかりません☆

いつからグラフィックデザインの授業はファインアートになったのだろう?いえいえ、でもやんなきゃいけないんです。でも分かんないものは分かんないですからね。頭を切り替えよう!と思って、この日の夜、10時まで開いていたV&AのDiane Arbus展に行ってきました。

けれど、頭の切り替えという意味でこの展示を見に行ったのは失敗でした。切り替えより、より深く落ちる展覧会だからです…。

ダイアン・アーバスは1923年、New Yorkの裕福なユダヤ人家庭に生まれます。何不自由なく育った彼女が写したモデルたちは、両性具有者、身体障害者、ヌーディスト・キャンプの住人-社会からはじかれたフリークスたち。

           

…と、社会的に「奇異」とされるものたちを写したことで知られる写真家ですが、彼女はふつうに公園で過ごす人々、通りを歩く人々も写しています。けれども、彼女の写真は一般に普通とされる人々にも内なる奇妙な嗜好があることを、まざまざとさらけ出してしまいます。彼女の視点は、社会的に奇異な人であろうとなかろうと、「完全に健全な人間などいない」という点で同じ、常に人に潜む奇妙な嗜好を拾いあげています。

1965年、ニューヨーク近代美術館で彼女の写真が展示されます。
展示されたヌーディストキャンプの写真に、観客の反応は厳しいものだったそうです。
展示されている間、職員は毎日作品に吐きかけられた唾を拭き取らなければならなかったといいます。

                     

彼女を駆り立てたものはなんだったのだろうか?写真を見ていて思ったのは、「この人たちはわたしと同じ」とくりかえし言っているように感じたことです。けれど不自由ない生活をしていたはずの女性がなぜ?調べてみると、裕福な家庭に育ったと言っても両親とのつながりは薄く、14歳の時に出会ったアラン・アーバスと18で結婚。進学はせず、ただ一緒にいることを望んでの結婚だったようです。とても孤独な少女時代をすごしていたことが伺えます。

60年代の彼女の写真は対象とのシンパシーを感じさせますが、常に一定の距離を置いて、観測者としてモデルを見つめています。けれども70年に入ってから、彼女の作品の雰囲気は変わります。

Untitledと名づけられた70年に入ってからの写真は、ダウン症の人々を撮ったものです。

         

それまでの彼女の写真には「対象を観察する」という意思を感じたのですが、なにか意思というようなものが希薄になって、作品に浮遊感を感じます。

71年に彼女は浴槽で手首を切り自殺。Untitledの写真を撮っていたときは、慢性的な鬱病が悪化していたようです。このころにはもう、彼女の精神と肉体をつなぐ糸は切れかかっていたのかもしれません。

少女時代のダイアン・アーバスは家族から孤立し、さらに芸術的な才能を激賞され周囲からも孤立していたようです。作品が認められ「生ける伝説」としてあがめられ、さらに孤独の淵に沈んでいったのでしょう。彼女の写真からは孤独から逃れるためにもがく、人間の哀しみを感じます。

 

とても暗い展覧会でした!テーマだけでなく照明も。あんまり寝てなかったので、眠くなってしまいました…。この展示を見て思い出したのがFishmansのヴォーカル佐藤伸治さんも、若くして病死していること。なにかこの世のものとは思えない浮遊感が曲に漂っていたなぁ。死にゆく人の作品には浮遊感が漂うのかと、ぼんやり思いました。

というわけで、気分転換にはほど遠い体験でした。あー課題が進まないな~!

        

        

    

     

 



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sknys

ポートレートは撮影者と被写体との距離のアートです。
モデルがどれだけカメラマンに気を許しているか、
心を開いているかが問題になります。

すべてを忘れてボクの胸の中に飛び込んで来いと
言わんばかりに両手を広げたRauschenbergや、
貴方にだけは私の素顔をチョットだけ見せてあげるわよ、
という趣きの斜に構えて両腕を組んだCindy Sherman──
Mapplethorpeの撮った肖像写真が素晴しいのは
被写体が彼を心の底から信用しているからです。

その手段としてのコミュニケーション(時間が掛かる)ですが、
間合いを詰めるてっとり早い方法があります。
相手(女性)を半強制的にヌードにしてしまうこと。
着衣とヌードでは明らかにモデルの表情が違う、
だから全裸にして敢えて顔だけを撮るんだ……と、
アラーキー氏は言っています。

Diane Arbusのポートレートは被写体との間に緊張感がありますよね。
それが見えない棘になって鑑賞者と撮影者に刺さるんでしょう。
彼女の写真を視て落ち込むのはblanc27さんだけではありません。

もっと早くコメントしに来たかったのですが、
先週末から『綿の国星』の記事内容をめぐって一騒動
(←身から出た錆!)あり、遅れちゃいました。

「課題」頑張って下さい。
by sknys (2006-01-17 18:11) 

blanc27

「ポートレートは撮影者と被写体との距離のアート」
納得です!付かずはなれずのいい距離感で撮られた写真を見た後に、Arbusの写真を見るとぎくっとしますね。
アートやデザインは心地いいものだけじゃないのだろうけど…身を削るような彼女の写真を見ると、正直、自分は人のやすらぎになるようなものを作りたいと思います。

課題はなかなか進まないけど(苦笑)ひとつひとつがんばります*
by blanc27 (2006-01-18 10:37) 

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